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撮影:中谷利明

シアターの足場をテストする
池田剛介

 真偽の程は知らないが、ギャラリーや美術館のようなホワイトキューブと呼ばれる空間に事物を置けば、なんでも作品になるとよく言われる。では劇場のブラックボックスはどうだろうか。演者やモノが舞台に上がれば、作品という虚構が成立することになるのだろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。ロームシアター京都で開催された公演「デスクトップ・シアター」では、そのような問いの中での試行が繰り広げられた。

 黒い空間にはそれぞれを小さな「シアター」に見立てた7台のテーブルが、コの字型に配されている。普段は客席の足場となって舞台と観客とを分かつステージデッキが、複数の小さな舞台として転用されているのである。テーブルの外側に並んだ椅子に着席すると、目の前には「ノースイーストテーブル」と書かれた黒いティッシュケースが置かれている。やがて演者が現れ、「携帯電話など音の出る機器は……」といった、通常は作品の外にあるアナウンスがテーブルごとに繰り返される。シアター内シアターの設定、演者によるアナウンス、さらにテーブルの上の黒い箱=ブラックボックスとしてのティッシュケースも含め、この作品が劇場という枠組み自体に言及するものであることを、ひとまずは理解することができる。

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 この7つの舞台=テーブルの上で、何が展開されるのか。私がたまたま座った「ノースイーストテーブル」から見た、出だしの様子は次のようなものだ。テーブルの上には消毒液が入っていると思われるポンプ式の容器。そこにマスクをした演者が現れる。人差し指と中指でテーブルの上をゆっくりと歩くような動作。その手に吹きかけるように、もう一方の手でポンプを噴射する。その後、トランクを持った男性や黒子の格好をした人物、連れ立って歩く二人の女性など、数名の演者が指による歩行の動作を伴いテーブルの前に現れては、ポンプに触れつつ通過していく。

 他のテーブルには本やコップ、トランプやミニカーといったさまざまな事物が置かれ、それらと関わるように演者がテーブルの前に現れては、また別のテーブルへと移動していく。音楽や光による知覚的な刺激は抑制され、情動を巻き込むようなドラマもなく、慎重に、淡々と、時に忙しなく事物と関わる所作が、各テーブルを舞台に繰り広げられる。演者は観客を意識するというよりも、目の前のモノに深く心を砕く──というよりも身体を砕いているように見える。天板の上のモノに没入するかのような演者の振る舞いに、観客もしばし固唾を飲むことになる。

 やがて向こう側のテーブルの演者は、なぜモノが散らかっているのか、何やら独り言めいたセリフを呟いている。続くようにその隣のテーブルでは別の演者が、コンロを載せるための台を購入した際の話を始める。どちらのエピソードも冗長に語られる上に、後者の語りは別の演者によってエコーのように繰り返される。冗長さは意図的なものだろう。さらに別のテーブルでは演者が忙しなくモノを動かし続け、目の前のテーブルではレストランでの一幕が立ち上がり始めている。観客は特に脈絡のない(ように感じられる)複数の場面のそれぞれを十全に追うことができないし、追うことのできない散漫な状況自体が提示されている。

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 劇場の求心性から転じるように現れるこの状況は、ある場所に絵画や彫刻といったさまざまな作品の置かれた展示空間を思わせるものでもある。この場全体をコンセプチュアルに捉えるならば、ステージデッキの一元性を解体しつつ、劇場の求心性を複数のテーブルへと開く、とそのように「理解」することはできる。だがそれは観客の個別の身体によって感受される、この舞台作品の経験とはおそらく異なるだろう。劇場というフレームに対する自己言及的な構造は、テーブルの席に着いた時点で、あるいは冒頭で演者が反復的にアナウンスを行う時点で、すでに示されていたものだ。

 展示空間に近づくかのようにも見える本公演において、しかし見る者に強く感覚されるのは、目の前にあるテーブル上の事物と同様に、観客の身体がある場所に固定されているという事実ではないだろうか。複数の場面が同時並行的に進行するテーブルの一つひとつに注意を向けようとすればするほどに、それぞれのテーブルに対する距離が意識される。要するに、立ち上がって他のテーブルを見に行きたくなってしまうのである。

 とはいえ、たとえ観客が自由に動き回ったところで、同時並行で進んでいく複数の舞台を十全に見てとることは難しいだろう。むしろ客席が固定されることで、見る者の視点の有限性が強調されている。私は複数のテーブルに注意を向け続けることを断念し、散漫とも思える時間を受け入れはじめる。目の前では、演者がテーブルマナーについての本をハキハキと読み上げている。舞台のセッティングによってもたらされた新鮮さは後退し、私は「テーブルマナー」を意識しつつ、しかし客席の背もたれに深く重心を預けている。観客がある時間、ある場所に留まり続けるシアターという場を「体で」感じ始めている。

 その時、目の前でレストランのシーンを演じていた一つの身体が、ふいに天板の上に立ち上がる。もう一人が寄り添うようにテーブルの横に立つ。互いの立つ足場を隔てた二人が、ゆっくりと天板のエッジに沿って歩いていく。テーブルの上は平均台になる。不安定な足場を進む演者を支えているかに見えた傍らのもう一人は、あろうことかテーブル上の足を両手で抱えてズズッと前に押し出す。天板の上の二本の足が大きく開かれ、身体が大きくのけぞる。二本指による歩行の動作を等身大スケールに変化させるかのような「演出」を感じると同時に、これはかなり危険だと、あるいは「危うさのきわ」にあると直感される。すべてのテーブルをゆっくりと経巡る二つの身体は、その接点にある足元に観客の視線を巻き込んでいく。

 二人の演者が歩くのは、テーブルという平面のきわであると同時に、フィクションの場のエッジでもあるだろう。ここで演者は、テーブル=劇場で虚構を立ち上げる存在でありながら、危うい足場を行くモノとしての身体でもある。天板を注意深く見つめながら進む二つの身体は、シアターを脱中心化するように配されたシアターの更なる周縁で、フィクションのエッジを綱渡りする。演者が一歩進むごとに、散漫さのうちに沈み込んだテーブルの澱みが混ぜ返される。張り付くように進む足は、慎重にやすりがけを行うかのようでもある。やすりがけされるのは何か。それは劇場というフィクションの場そのものである。安定した場におけるシアターに対する「自己言及」とは異なる、フィクションの崩壊と背中合わせの「テスト(検査=実験)」がそこにはある。テーブルを舞台にモノとの関わりを模索する本公演の試みは、自らの足場を支えるモノ=テーブルそれ自体との関係において、ピークに達している。

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 その後、空間全体に照明がもたらされ、個別のテーブルとして存在していた舞台は、一つのフィクションの空間へと開かれつつあるようだ。ようやく舞台全体がコワーキングスペースとして立ち上がり始めたところで、作品は唐突に幕切れを迎える。一つのフィクションが成立してしまってはデスクエッジではない、とでもいうかのように。観客に向けられた演技の迫真性とは異なる、モノとの深く没入的な関わりは、フィクションの成立が極端に不安定化する場、シアターが二重に周縁化される場においてこそ試行されていたのである。

 

*演出は福井裕孝と吉野俊太郎による。本公演はロームシアター京都と京都芸術センターによる、若手アーティストを支援するプログラム「KIPPU」の事業として、2021年7月2日(金)~ 7月4日(日)ロームシアター京都、ノースホールにて上演された。

プロフィール〉

池田剛介(いけだ・ごうすけ)

1980年福岡県生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修了。モノや絵画をめぐる関心を軸に制作やプロジェクトを行う一方、批評誌などでの執筆を手がけている。主な個展に「現象と干渉」(MEDIASHOP|gallery、京都、2019年)、「モノの生態系」(絶対空間、台南、台湾、2015年)、「メルボルン芸術発電所」(RMIT PROJECT SPACE、メルボルン、オーストラリア、2013年)など。主なグループ展に「絵画の見かた reprise」(√K Contemporary、東京、2021年)、「Malformed Objects」(山本現代、東京、2017年)、「Regeneration Movement」(国立台湾美術館、台中、2016年)、「あいちトリエンナーレ2013」(愛知、2013)など。著書に『失われたモノを求めて 不確かさの時代と芸術』(夕書房、2019年)。2019年より京都にてアートスペース「浄土複合」をディレクション。