
Photo by Tarsuru Someya
Otomodama
ジャグリング道具メーカーPM Jugglingと共同でビーンバッグ『otomodama』を製作。その実演販売をジャグリングのオムニバス公演の一演目として上演した。実演販売士は『otomodama』のジャグリングで使わない時間の使い方をこの場にいない観衆に向けて実演する。『otomodama』は物販にて実際に販売した。商品という属性を用いてジャグリングと演劇を接続する。ものを売るための上演。
Juggling Unit ピントクル 主催 オムニバス公演『秘密基地 vol.10』
2019年11月14日-17日
こまばアゴラ劇場
otomodama 商品ページ
演出|福井裕孝
出演・実演販売|岩田里都
商品製作|PM Juggling
商品コンセプト|板津大吾、福井裕孝
舞台監督|葛川友理
音響|道野友希菜
照明|渡辺佳奈、斎藤 浩一郎
宣伝美術|mk(Flow Art Circle LateR)
制作|新原伶、松前健司
MC|とみさこ
主催|Juggling Unit ピントクル
提携|(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
協力|浄土複合
ジャグリングに向けてのメモ
ジャグリングのための物体であっても、日常的な物体であっても、それらは演者の身体に従属し、パフォーマンスに奉仕する道具として振る舞うことしかない。この日見た演目のほとんどがモノを使ったダンスや演劇にしか見えなかったのは、人とモノとの関わりが劇場でよく見るそれと同じだったからだ。アクターは常に一人しかいなかった。
『わたしの方法は、意識的な統制やコントロールではなく、物質との共同作業といったほうがふさわしい』ロバート・ラウシェンバーグ
人はモノがないとジャグリングをすることができないが、モノ自らが空中に浮かび上がることもない。人にはジャグリングをしないという選択の余地があるが、モノにはない。モノが人の手から離れ、地に落下する。このパフォーマンスの中断は、モノによる抵抗や反発ではなく、振り付けの失敗として処理される。
李禹煥の石には、その内に保存された当事者である作家と対象物との過去の〈出会い〉の経験を見ることしかできない。作家の〈出会い〉を外から見るということが、鑑賞者のあるがままの〈出会い〉でということになる。というような内容の論考があった。演劇やジャグリングでも、人とモノの関係について語られるときに、なぜか観客や鑑賞者が〈人〉として関数に含まれていないことが多いような気がする。
終演後に物販で出演者が使っていた手作りのジャグリング道具が販売されているという話を聞いた。演劇の公演でも過去の戯曲や公演DVDが売られていることがある。それらは購入者/所有者が過去の上演を〈観客〉として体験するものであるが、ジャグリング道具は文字通り、購入者/所有者が〈演者〉として使用するものであり、それは例えば、あるバンドのライブの物販でメンバーの使用するモデルのギターやドラムセットが売られているようなことに近い。ギターはショーケースの中に飾って〈観客〉として眺めるインテリアではなく、演奏するための楽器である。
上演と物販の力関係を反転させること。上演に付随するイベントとしての物販ではなく、物販のための上演、ものを売るためのパフォーマンスがあり得るとすれば、それは限りなく実演販売である。パフォーマンスで使用されるボールやリングは、ただの道具や素材ではなく〈商品〉として観客の前にあらわれる。この時、演者とモノの関係は何か変わるのか。
『実演販売士は商品のことを分かりやすく説明するだけでいいんだ、主役はあくまでも商品なんだ、と気が付いたんです』レジェンド松下