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sho-005-02  シャワーカーテン
photo by Yujiro Sagami

シアターマテリアルから受けた触発
岡田利規

 劇場では多くの人が働いている。館内を清掃する人、警備する人、公演時のチケットもぎりや場内整理をする人、技術スタッフ、各種事業の企画・制作を担うスタッフ、広報スタッフ、票券担当スタッフ、総務スタッフ、俳優やダンサーやミュージシャンといった出演者、芸術監督や館長……ほかにもいるに違いない、これでは網羅できていないに決まっている。

 たとえば、芸術監督という肩書きを持つ者は、その劇場を代表する「顔」として、表に出る。演劇用語が一般的慣用句に転じた表現を用いるなら、「脚光を浴びる」。その劇場で働く、そのほかの多くの者には、"主役級"のキャストは別にして、そのようなことはほとんど起こらないだろう。

 芸術監督の任に就く者のなかには、そうした、自分にだけスポットライトが浴びせられる状況に対して、面映くおもう向きもあるだろう。たとえばそういうわけで、劇場職員全員が一堂に会した集合写真をプロのカメラマンに撮ってもらい、それが大きく引き延ばされて館内の目立つところに掲示されたりすることがある。もっとも、その集合写真の場にほんとうに全員が招かれているのだろうか? そんなことはないだろう。アルバイトやインターンは呼ばれないかもしれない。もしかしたら、清掃スタッフには声が掛からないかもしれない。写真は苦手だからという理由で、あるいは、そのプロジェクトの欺瞞性に加担したくないからという理由で、撮影に参加するのを辞退もしくは(おそらくはカドが立たないよう、やんわりとした仕方で)拒否する者もいるだろう。

 と、まずはこんなことをわたしはこの「シアターマテリアル」という野心的な試みに触れることによって、考えずにいられなかった。

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foy-009  チラシラック
 photo by Yujiro Sagami

 このプロジェクトのタイトル「シアターマテリアル」とは、どういう意味だろうか? どういう意味を含むのだろう?

 モノによって演じられる演劇という意味は、そこに含まれるのだろうか?

 ここに載っている写真たちは、モノたちが演じているところを捉えた写真つまりは舞台写真なのだろうか? それともニュートラルな状態を撮ったいわばプロフィール写真なのだろうか?

 モノたちが写真に写っている場、そこはどこなのだろう? そこは、舞台なのだろうか? それとも、どこでもないニュートラルな場なのだろうか?

 

 これが舞台写真なのだとしたら、これは、舞台美術なしの舞台、ということになる。舞台美術などなくても演劇が成立することはもちろんなのだけれども、舞台美術があることがおもしろく機能する演劇があることが決して珍しくないというのもまた事実である。なので、考えてみたい。モノたちが演じる演劇にとっての、セットなど何もないいわゆる素舞台という以上におもしろい舞台美術がもしもあるとしたら、それはどんな舞台美術だろう? その舞台美術は、何によって構成されているのだろう? モノによって構成されているのだろうか? モノたちが演じる演劇の舞台美術の素材はモノ以外の何かであるべき/あったほうが良い、だろうか? だとしたら、それはいったい何だろうか? モノたちの演劇の舞台美術をデザインするためのしかるべきコンセプトがあるとしたら、それはどのようなものだろうか? それをデザインするのは誰だろうか?

 いっぽう、これらがプロフィール写真であるのだとしたら。その場合、わたしはこれらをたとえばわたしが演出を手がける予定になっている演劇公演企画の出演者をオーディションで公募することにした、そこに応募してきてくれたモノたちの写真、というふうに見ることができる。そうなると、このなかからどのモノたちを選ぶのか、という話になる。それぞれからどのようなポテンシャルを見出すか、それは演出家次第ということになる。さらに言えば、それらがオーディションのためのプロフィール写真なのであれば、写真を見て選考するのは書類選考の段階に過ぎない。しかもわたしはといえば、ヒトの俳優をまれにだがオーディションすることがある場合でも、写真はほとんど参考にしない。写真でその人の良し悪しをわたしは選べないからだ。(と、書いて今ふと思ったのだが、それであれば今後もしオーディションすることがあるとしたら、そのとき応募書類に写真を添付させる必要はないかもしれない)それはともかくとして、書類選考だけでオーディションが完遂するということは普通ないのであって、それを通過した人々に直接会って面接したりテキストを読んでもらうなりパフォーマンスをやってもらうことになる。モノたちをオーディションするその段階においてわたしはどんな課題を出すことができるのだろう? わたしはモノたちがヒトの俳優たちと同等あるいはそれ以上の存在感をもつ演劇をつくる試みとして「消しゴム山」という作品をかつてつくったがその際、モノたちのセレクション(つまりオーディション)や配置や動きはコラボレーターであった金氏徹平さんに一任していたからわたしは何もやっていない。わたしにはモノをオーディションすることができるのだろうか? 

 と、こんなこともわたしは「シアターマテリアル」に触れることによって、考えた。

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theC-054  ベニヤ
photo by Yujiro Sagami

 この「シアターマテリアル」というプロジェクトは一種の考現学的価値も持つだろう。昔の俳優たちのプロフィール写真は、それが捉えているメイクの仕方・髪型・服装・表情のつくり方には、現代の眼差しで見たとき、興味の尽きない考古学的価値が備わっている。現在のわたしたちにとってはそれが普通に魅力的であるとおもわれる髪型・メイク・服装・表情のつくり方をしてプロフィール写真に写っている同時代の俳優たちのそれらも、未来においては考古学的考察の対象となる。それと同じことが、ここに収められたモノたちの写真にも起こる。そのときこれは掛け替えのない価値を持つ。

 そんなことも「シアターマテリアル」はわたしに考えさせてくれた。

プロフィール〉

岡田利規(おかだ・としき)

演劇作家、小説家、演劇カンパニー「チェルフィッチュ」主宰。2005年『三月の5日間』で第49回岸田國士戯曲賞を受賞。2007年に同作で海外進出を果たして以降、世界90都市以上で作品を上演し続けている。音楽家・美術家・ダンサー・ラッパーなど様々な分野のアーティストとの協働を積極的に行うほか、2016年からはドイツの公立劇場レパートリー作品の作・演出を務めるなど、国際共同制作作品を多数手掛ける。

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