モノたちの演劇、あるいは片づけられない部屋|

山﨑健太

『インテリア』(2018)

 演劇は現実と虚構の二つのレイヤーによって構成されている。福井裕孝『インテリア』はそのタイトルが示唆するように、演劇における「モノ」の存在の仕方にフォーカスをあてることで、現実と虚構のレイヤーのあり方を問い直す作品だとひとまずは言えるだろう。会場となったtraceはかつて倉庫だった建物の二階を改装したギャラリー。杉板が張られ天窓の開いた天井こそギャラリーらしからぬ雰囲気だが、上演の行われる空間は床も壁も白く塗られ、おおよそホワイトキューブと言ってよい。そこにローテーブル、巨大なビーズクッション、サーキュレーター、消火器、バケツ、植物の苗(生い茂った豆苗?)などが点々と置かれている。ガラガラとシャッターを開けてビニール袋を下げた男(向坂達矢)が入ってくる。靴を脱ぎ、下駄箱へしまう。ビニール袋を床に置き、紐を引いて電気をつける、というジェスチャーをする。実際にはそこには紐も電球もなく、明かりも変化しない。ローテーブルの向きを変え、合わせて座布団を置く。ビーズクッションも移動させ、そこに座る。リモコンでテレビをつけるが、これもジェスチャーのみでリモコンもテレビもそこにはない。テレビに向かって右手の流しに(あるいは洗面所に?)手を洗いに行くが、これもジェスチャーのみ。靴下を脱ぎ、足の裏をティッシュで拭き、靴下をティッシュの上に並べる。ビニール袋からおにぎり、フルーツグラノーラ、生茶、消臭力、スーパードライを取り出して並べる。といった具合にどうやら一人暮らしらしい男の日常が演じられ、やがて男は再び電気を消すジェスチャーをすると外へ出てゆく。それは一日のうち、男が自室で過ごす時間を切り取ったもののようだ。同一ではないものの似たような一日が三度繰り返される、というのがこの作品の大枠である。

 奇妙なのはテーブルをはじめとする家具の移動だろう。男はテーブルや座布団、ビーズクッションを移動させると、クッションにもたれてテレビを見はじめる。観客はこのとき初めて「そこ」に観客には見えないテレビが存在することを知るのだが、ではそのテレビはいつから「そこ」にあったのだろうか。テーブルを移動する前からテレビが「そこ」にあったのだとすれば、それはまた随分とおかしな家具の配置である。観客はなんとなく釈然としないままに上演を見続ける。ところが、男は二日目もまた異なる場所にテーブルを移動すると、何事もなかったかのようにその移動先でテレビを見はじめる。男の行為にテレビの移動はどう見ても含まれておらず、テレビはいつの間にか「そこ」にある。その後の男の行動を見るに、どうやら流しの位置も移動しているようだ。しかしテレビは常にテーブルを挟んで男と正対する位置にあり、流しはテレビに向かって右手にある。相対的な位置は固定されたままであり、つまるところ男の部屋はテーブルを基準点として規定されているようだ。演劇は観客の想像力に働きかけることで、上演の時空間を自由に設定・変更することができる。traceのようなホワイトキューブは上演においてどのような空間にもなり得るが、もちろんそこには制約がある。実際に上演を行う空間は無限ではあり得ないし、そこにある物体を自由に出したり消したりすることは不可能だ。俳優が宙に浮いたり壁を歩いたりすることも不可能ではないが難しいだろう。上演はまず第一に、物理的条件という現実によって規定されている。

 ​『インテリア』の面白さは、この物理的条件とフィクショナルな空間との間に生じる摩擦にある。たとえば流しの位置。それはたしかに常にテレビに向かって右手に位置してはいるのだが、二日目にテーブルが置かれる位置は会場の壁際である。テーブルを基準点とした相対的な座標で流しの位置が決まるのであれば、それは壁の向こう側に位置するはずなのだが、俳優が壁の向こうに行くことは物理的に不可能である。俳優はやむを得ず(?)壁ギリギリの位置で手を洗う動作をすることになり、流しの相対的な座標はキープされない。男の部屋は奇妙に歪み、伸び縮みすることになる。移動することでフィクションの秩序を変更するモノもあれば、移動しないことでその秩序を撹乱するモノたちもある。位置を変えるテーブルやクッションに対し、男が買ってくる食料や日用品、あるいは脱ぎ捨てた靴下といったモノたちの多くは、一度置かれた場所からほとんど移動することがない。「昨日の部屋」と「今日の部屋」とでは現実の空間に対する位置や向きが変わっているのだが、「昨日の部屋」に置かれたモノはそこに置かれたままにある。配置されたモノは「昨日の部屋」を記憶しているが、それらのモノと想定されるフィクショナルな「今日の部屋」との関係を合理的に説明することは不可能だ。だが、痕跡としてのモノたちもまた、物理的にはその他のモノ、たとえば移動を繰り返すテーブルと同じレイヤーに属している。端的に、それらはどれもモノに過ぎない。だから、痕跡は重なるにつれその区別をなくし、一体として単なる生活の痕跡、雑然として片付けられていない部屋の様相を呈しはじめる。一人暮らしの部屋に散らばるモノたちは、全てがそこに住む者の行為の痕跡であり、その意味でそれぞれが何らかの目的に応じてその場所に存在していたはずだ。しかしそれらが片づけられないままに放置されたとき、個々のモノが持っていたはずの秩序=目的は見失われ、散らばるモノたちは等しく混沌を形成する一要素となる。「昨日の部屋」と「今日の部屋」は、気づけばなし崩し的に溶け合っている。

 ところで、上演にはまだ少しだけ続きがある。男の日常が三度繰り返されたあと、四日目がはじまるかと思いきや、女(金子実怜奈)が入ってきて部屋を片づけはじめる。家事代行業者のようだ。女はひと通り掃除を済ますと出て行く。再び男が入ってきていくつかの行為をしたところで作品は終わる。女の掃除の大部分は、散らばる様々なモノを部屋の片隅に片づける作業になる。だがその置き方はどこか奇妙だ。モノの種類別に置いていると言えばそうなのかもしれないが、どちらかと言えば、分類は色によって行なわれているように見える。室内にあるモノのほとんどは緑か赤、そうでなければモノトーンだ。そもそも、男がモノを部屋に置く手つきからしてどこか儀式めいていたのだった。脱いだ靴下はなぜかティッシュの上に丁寧に寝かせられ、フルーツグラノーラと生茶とスーパードライが一列に並べられる。それらの行為に日常生活に照らした合理的説明をつけることは難しい。むしろ、美学的基準によって配置は行なわれていると考えた方がまだしも理解がしやすいだろう。

 女はさらにそれらの配置をリセットし、色という新たな秩序の下にモノを配置し直してみせる。そこでは緑色の殺虫剤の缶は無数の生茶のペットボトルと同類と見なされる。フルーツグラノーラの赤い袋の横には消化器やドラム型の延長コードが置かれ、一つだけ脇に置かれたチョコ味の(ということはつまり茶色の)グラノーラの袋はどこか肩身が狭そうだ。本を整理するとき、著者や内容別に並べた方が使い勝手はよいのだが、サイズ別に並べた方が多くの本が収納できる。ここには並べ方の二つのルールがある。どちらに従うかは人や条件によるだろうし、二つのルールが組み合わせて使われることもあるだろう。たとえば図書館では、基本的に内容別に本は分類されているが、大型本は別に置かれていることが多い。空間は一つの規則によって統御されているとは限らない。

 考えてみれば、モノたちは人間の都合で場面に応じて様々な規則に従うことを強いられている。種類別に整然と並んだ商品棚から取り出されたモノたちは家に持ち込まれると異なる規則の下、冷蔵庫や棚の中、卓上などに配置される。やがて用済みとなったモノたちは今度はその構成する素材ごとに分別され捨てられる。整然と色ごとに並ぶモノたちが奇妙に見えるのは、日常生活ではまずそのような並べ方をすることがないからだ。そこには見えているのに見えていないレイヤーがある。モノたちはまた、美術の文脈の中に置かれればレディメイドと呼ばれ美術作品となるだろう。モノたちの演劇をめぐる思考はこうして現代美術と接することになる。翻って俳優=人間はどうだろうか。言うまでもなく、演劇においてフィクションのレイヤーを構築するのはまず第一に舞台上の俳優の言動であり、それを担保するのはそこで生成される規則に乗る観客の暗黙の了解である。男が、想定されるフィクションの空間からは逸脱するような仕方で机を移動させたり、あろうことかその位置をビニールテープで記録してみせたりすることは、男こそが空間を制御している存在であることを示している。男はフィクションに対してメタの位置、つまりは現実に立っているのだ。だが同時に、現実に属している男は物理規則に従わざるを得ない。男が構築するフィクションの空間は、自ら移動させたモノたちの配置という物理的現実に規定されてしまう。メタの位置に立っていたはずの男はどこまでも現実に囚われており、男とモノの主客は循環している。

 ここでは『インテリア』における取り組みのさらなる展開の可能性を示唆して本稿を閉じたい。その可能性は終盤に登場する女にある。女は男の配置したモノを異なる規則の下に配置し直してみせた。ここにあるのは他者の、異なるフィクションの介入の可能性である。一人暮らしの男の部屋において、モノの配置は男自身の行為の帰結としてあり、そうでしかありえなかった。だが、フィクションの空間を生成するのが男ひとりでなかったならば? そこにはより複雑な現実と虚構との関係、より豊かなモノと人との関係の可能性が眠っているのではないだろうか。

山﨑 健太​(やまざき・けんた)

1983年生まれ。演劇批評誌『紙背』編集長。webマガジンartscapeで舞台芸術を中心としたショートレビューを連載(2017年12月~)。SFマガジンで「現代日本演劇のSF的諸相」を連載(2014年2月~2017年2月)。

Kyoto, Japan

© 2020 Hirotaka Fukui