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テーブルで人とものが共演する『デスクトップ・シアター』。少し謎めいて見えるこの作品、作り手にとっても試行錯誤の連続です。いったいどういう作品なのか、具体的なエピソードやキーワードをドラマトゥルク(座組全体のサポート役)の朴建雄がクリエーションメンバーから聞き、創作の現在地を共有していきます。

今回は2回目。出演の石原菜々子と斉藤ひかりに話を聞きました。

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vol.2

ものと共演するために、

どう居られるか?

石原菜々子(出演)/ 斉藤ひかり(出演)

どういうルール

どういうルールで、どういうモード?

   本日は稽古前にお時間をとっていただきありがとうございました。石原さんと斉藤さんに、稽古場での実感についてお話を伺うのを楽しみにしておりました。斉藤さんは、20193月に上演されたデスクトップ・シアターのワークインプログレスにも参加されていましたよね。まず、前回のワークインプログレスに参加されたきっかけについてお話しいただけますでしょうか?

 

斉藤  福井さんと最初は京都でコントやってます会という公演で知り合いましたが、それがきっかけではないと思います。わたしが京都ロマンポップの解散公演に出ていて、それを見に来てくださっていたあとに、前回のワークインプログレスに出演することになりました。京都ロマンポップの向坂さんは福井さんのインテリアに出演していて、なんかそういう繋がりかなと思っています。

 

   前回のワークインプログレスでやったことと、今回やっていることのつながりってどんな感じでしょうか?

斉藤  今回は前回やってなかったこともやってます。共通して言えるのは、信じられることがめっちゃ多いってこと。その塩梅じゃないけど......。信じられることが多くて、今どういうふうにおったらいいんやろうと思ってます。まずルールを……。どうですか石原さん?

 

石原  信じられるってどういうこと?

 

斉藤  机の上でやってること自体とか。机の上で劇が起こってること、だけどテーブルだってこと、そもそもこの空間が劇場だってこととか、人です。指です。とか。

 

操作にのめり込むとその空間でからだを動かしてる自分はないものになる。指を動かして「人」ってやるけど、そこには自分のからだがつながっている。でもこれはテーブルですっていう。そういう信じられることがけっこうある……。

 

ここにあるものは全部見えてますよ、みたいなこと。ないものとして見てくださいっていうことはできないけど、でも全部「はい、うそで~す」という態度でい続けるのは違う。そういう距離感のルールを模索中。わたしの中で探ってる感じです。

 

石原  確かにそれ、めっちゃ難しいなと思いながらやってますね。斉藤さんがさっきそのまま言ったことなんですけど、ものを扱っている手とその手で扱っているものへの比重、机の上で指を動かしているその指への比重と、自分自身のからだへの比重を変えていく。ものに意識の重心を置いてるけど、ふとした瞬間に、自分自身でも扱っている身体の方への意識を忘れていて、「待てよ」と思い出す時がある。かなりいろんなことを意識的にやらないといけないし、塩梅を考えないといけない。

 

朴   テーブルの上で上演をするにあたって、演者として動く手、指、その手と指を動かしているからだ全体、テーブルの上にあるもの、の4つのバランスを見ていくのが難しいんですね。

 

斉藤  机の上でやるじゃないですか、1. モノカーとか。いくらでもテーブル上でやってることに入りこめるけど、そこでやっているフィクションに自分を引きすぎると、それも違う。

 1.『PUI PUI モルカー』のように、ものを車に見立てて行う上演。

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稽古風景(写真:小中葵)

もののための動き

もののための動きを習得する

石原  稽古で、福井くんが音楽的なセンスが重要と言ってた。

 

斉藤  舞台を作る側が、見せ方を操作するっていうのは違うと思うんですよね。こうなって、こうみたいな説明をするのは。例えばモノカーだと、今私は運転手だけど、次はスポンジを動かすだけ、みたいな。そういう中で、どういうモードでいるのかみたいなことが重要だと思います。

   音楽的に、という言葉がありましたが、実感としてどういう意味でとらえてらっしゃいますか?

  

石原  福井くんの言ってたことから考えたんだけど、なにかが、その「もの」として見える瞬間。例えば、モノカーのシーンをやっていて、常に机上のものをちょっとずつ動かしているのだけど、ふと、全てのものが止まっていて斉藤さんの指だけが動いている瞬間が生まれて、その静寂な時間のなかで机上の全ての止まっているものたちがくっきりと見えた瞬間がありました。そういうことを発見していくみたいなことなのかな。あ、そういえばこれやってるの人だった、みたいな気づきとか。それを濃縮していく感じ。音楽っていうのは、そういう間を発見するためのリズムかな?

 

ものとひとと手の比重みたいな話にちょっと戻りますが、福井くんや吉野さんの言葉で、ものとひとの権力関係ということを言っていますよね。前回のアーカイブで、ひととものが同列な価値で舞台上にいるのは無理だよなという話をしていたと思います。確かにそうかもしれない、と。人がものを使う立場であると考える以上、対等ではない。その上で、ものをどう扱うのか、そのことが自分の中では腑に落ち切ってない。

 

めちゃくちゃ意識しないと、ふっと無意識的にものを使ってて、日常でも気づかされることが多い。一方で、ものを使う、使わないという関係にあるとき、触っている接触面でもって、人のほうがものにかなり制限させられていることもあると思います。たとえば棒を持っていたら、棒の長さで可動域が変わる。吊り革持ってたら、吊り革に制限された範囲しか動くことはできない。持たなければ開放されるのだけど、物に触れていない瞬間はない。ものを机の上で動かす、机を舞台としてやる、机に対して自分がどういう立場をとるか、みたいなことを、使う・使わないという関係だけでなく、いろんな力関係から眺めて、それを発見しながら考えていきたいです。

 

斉藤  動かしてるのはこっちが動かしてるのはあるけど、動かすための動きをさせられてる。扱っているもののための動きを習得しないといけない。それ用の動きになる。

 

石原  この角度だとめっちゃ手がつる、でもこの角度だとかっこわるいし、みたいな。

 

斉藤  単純に机が高いからということもあるし。

 

 

石原  机とものの摩擦とか。どう力を入れて、どれくらいの速度でいくかとか。コントロールしてるんだけど、からだの使い方は選ばされてる感じが何となくある。

 

   今、稽古で具体的にやってることはどんなことなんでしょう?

 

石原  最初の頃は、机があって、そこを舞台としたときに、じゃあこういうことをどう表現しますか、みたいな。桃太郎をやったりとか。そういうことからスタートしたと思います。

 

斉藤  最初は人形浄瑠璃の動画をみんなでみてからやった。そのあとみんな、もので表現することに集中しちゃった。あんまそこフォーカスしすぎない方が、という演出からの助言がありました。

 

石原  ものがあるからと言って、使っていいのかという問題もあるよね?使うものと使わないものがあって。ものを使って犬猿雉に見立てるときに「車輪がついていて動くからこれは動物」という選択の仕方で良いのか、ここで消しゴムは違うみたいな選択の妙があって、それはなんでなんですかね、と言われて、確かになんでなんだろな~

 

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稽古風景(写真:小中葵)

斉藤  それがあって、ものの質感も意識するようになった。見立てられるけど、質感的に違うみたいな。桃太郎をした時に、私のチームは主に人と手とミニカーを使ったんですが、どんぶらこのシーンで青色の車をいっぱい使ったら、このメタリックな感じで水をやるのはどうして?みたいな質問があって、たしかに…...と。形とか色でならこれだけど、質感では違う、みたいなことがものを選ぶときの土台になってる。

 

石原  いまは基本的に、福井くんの方からシーンやテキストの提案があって、例えばモノカーみたいな仕組みをまず与えられて、それをやってみた後に毎回フィードバックを行います。次いったら、それを元にテキストが組み立てられていて、またやってみる、みたいな印象。

 

   毎回テーブルの上で扱ってるものは違うんですか?

 

斉藤  毎回入れ替わりじゃなくて、増えていってる感じ。テーブルの上にあるものが増えてます。向き合えるものの候補が増えて、とにかくいっぱいある。

 

 

石原  今はシーンをバラバラに組み立てて、シーンごとに扱う質感がくっきりしてる。テーマがある。それによって何を使うかも違う。

 

斉藤  テーブルをテーブルとして扱うパターンと、そうでないパターンがありますね。

石原  パソコンと身の回りのもの、みたいなパターンと、モノカーみたいな、車に見えそうもないもの、ティーカップとかを車に見立てるパターン。

   ものがそのままいる感じと、ものが演じてるパターンに分かれるんですかね。

 

石原  こっちがものに役を演じさせてる時と、パソコンをそのままパソコンとして使っているときもある。そういう違いで、同じ空間にいる人の居方も変わってきます。

テーブルにどう居られるか、

いかにその外にアクセスするか?

   今、稽古の中で気になっていることや、個人的な課題などありましたら、伺ってもよろしいですか?

 

石原  今は机の上と、ものと、わたしと、わたしの手と、という関係で考えてやってるけど、それをもうちょっと見ている人や後ろの壁みたいな外側の空間も含めて考えていけたらと思ってます。今自分がやっていることが上演になるとしたら、それはなんなんだろなあ、と。いつどの瞬間に上演になるのかは、まだ全然いろいろ自分でつかめてないなあという感じです。テーブルを前にしたときの自分の居方に今いっぱいいっぱいで......。

斉藤  どういう居方でいられるのかな、みたいなことばかり考えてしまいます。

   いつも出演されてるような演劇の作品だと、居方ということにはあんまりフォーカスされないんでしょうか?

石原  居方については、普段から意識しています。全然いま居られてないな、でもこの状況でどうやったら居られるんだろ、みたいなところを稽古しながらずっと探ってます。

 

ただその自分の居方が、他の作品だと、「今どう見られてるんだろう」みたいなことも遠くないと思う。どう見られるか、どう居られるか、どう居るか、見てるひとにどう影響をあたえるか、それが普段だともう少しつながっている。今回は、扱うものへの意識に細かく集中してしまって、同時に見ている人がいてどう関係していくのかということに意識が繋がりづらいなという感覚があります。

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稽古風景(写真:小中葵)

斉藤  テーブルっていう前提とか、反対に指が人という制限をかけすぎると視野やできることが狭くなる。でも、その手の感じからいきなりからだ全体をぽーんとテーブルの上のフィクションの空間に入れて、傲慢な感じで「はい!」、みたいなのも違います。「はい、人です」みたいなやつ。でも単純に、スピードとかでそう見えてしまう場合もあるし、その中でどうしようかなという感じです。

 

朴  テーブルの次元、その上のものの次元、手の次元、演者のからだの次元の4つがあって、それぞれのバランスをどうしていくのか、そしてバランスを考えたうえで、その4つの次元を外側から見ているお客さんという5つ目の次元にどう向き合うのか、ということが問題になっていきそうですね。とても繊細な作業でたいへんかと思いますが、どうなるのか非常に楽しみです。本日はありがとうございました。

テーブルにどう

ロームシアター京都×京都芸術センター

U35創造支援プログラム“KIPPU”

デスクトップ・シアター

202172日(金)~74日(日)

ロームシアター京都ノースホール

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