image4.jpeg

テーブルで人とものが共演する『デスクトップ・シアター』。少し謎めいて見えるこの作品、作り手にとっても試行錯誤の連続です。いったいどういう作品なのか、具体的なエピソードやキーワードをドラマトゥルク(座組全体のサポート役)の朴建雄がクリエーションメンバーから聞き、創作の現在地を共有していきます。

今回は4回目。出演の今井彩乃と小中葵に話を聞きました。

アセット 3.png

vol.4

ものの時間、わたしの時間

今井彩乃(出演)/ 小中葵(出演)

 

日常との接続

   お忙しいところお時間いただきましてありがとうございました。稽古の最初に謎の話す会みたいなのをやったときにお二人とはお話ししましたが、それからかなり時間が経ってしまいました笑。ちなみに、今井さんは学校のテストのため稽古をお休みされていると伺いました。テスト勉強おつかれさまです......。どれくらい稽古に行かれてないのでしょうか?

 

 

今井  今は期末テストで、3日くらいですね。この前も中間テストで、1週間くらい休みました。

 

 

   その一週間で、周りや自分がこう変わったな、ということはありましたか?

 

 

今井  動きは変わってましたね。それと、稽古の中で見てきたものとか人との関係を、学校でも考えるようになりました。この学校の場面では、こういうふうにものを使ってたんやなという気づきがあったり。 

 

 

   なるほど! ぜひもう少し具体的なお話を伺えたら。というのも、テーブルの世界に入り込むだけでなく、テスト期間は日常世界に完全に戻られる今井さんの感覚って興味深いなと思ってまして。この作品と日常の接点を、そこから考えられる気がしています。

 

 

今井  稽古場だと、同い年の人がいないんですよ。大人ばっかりなので、大人の見てるひととものはこんな感じなんやな~というのは稽古場でわかったんですけど。学校やと、同じ年代の人たちでばっかやから、大人と子どもで、ものとひとの扱いが違うのに気づきました。ひとつのものに人が集まる感じ、環境が違います。

 

いま中学2年生なんですけど、みんな青春盛りです。青春を楽しんで、学校の中でも恋愛的なことが多い。そこで面白いことを言ってる女の子がいました。体育館に水筒を忘れて、とりにいきたいなと思ってたら、好きな男の子が水筒をとってきてくれてうれしかったっていう話なんですけど。その男の子がもってこなかったら、うれしくなかったわけですよね。その人がものを手にしていることによって、そのものによって人が集まる。男の子のほうにたってみたら、ものは人とかじゃないし、感情とかもないから、人として関わるわけではないと思うけど、その水筒は女の子が日常で使っているということで、ちゃんと使わな、みたいな抵抗がある。丁寧に扱わないといけない。それで、ちょっと人に近づいたものの扱い方をしていた。もので人が集まるのか、人がものを動かすことによっても人が反応して集まっているのか、デスクトップ・シアターでの経験から、そういうことを学校生活の中でも考えますね。

image3.jpeg

稽古風景(写真:小中葵)

朴   すごい分析力。今井さんに比べたらわたしは中2のときなーんも考えてませんでしたね、すげーな~。誰かの持ち物、ということでものの扱いが変わるのは確かにすごくある気がします。

 

 

今井  稽古の中でも、ものと人と重なるところが多くて。例えば、共演者の斉藤さんについて歩くところがあります。そのシーンではものがメインだけど、人同士が交流しあうところもある。そういうのにも使えるかなと思いました。ものと人の関係。ものによって人と関わるということを学べました。稽古があるから、生活のなかでも、こういうことかなって想像がつきやすくなりましたね。

 

 

朴   今わたしのテーブルにあるペーパータオルみたいな大量生産品だとコミュニケーションしづらいけど、例えば朴が大切にしていたペーパータオル、みたいなことを考えてみたらおもしろいですね。そのものの背後にこういう人がいて、こういう作られ方があってという文脈があると、そのものを媒介にしてコミュニケーションしやすくなる。何で大切なん、それ?というところで。そう考えると人にものをプレゼントするってすごいことですよね、そのものを媒介にしてちょっと一緒にやっていこうやってことだから。もう既に日常との接続を実践してる人がいてすげ~と思いました。日常との接続という点に関して、小中さんはどうですか?

 

 

小中  むずかし~。なんだろう。私は比較的、日常でものの配置がミリ単位で決まってるタイプなんです。劇中の石原さんのシーンで、テーブル上にマスキングテープでものの位置をひとつずつ規定していく行為があります。それを昨日たまたま観てたんですけど、自分が普段やってることと既視感がありました。そういう部分では、日常との接続は結構ありますね。

 

今は稽古が後半戦なんですけど、実は全体像をあんまりうまく捉えきれてない部分があって。ずっと写真を撮ったりしてるので、自分がものに接続して何かを感じるというよりは、他の出演者のものに対する深度、取り扱い方の個性や特徴が出てきているのが見えてきていて、それらの差異が面白いです。観察しちゃってますね。

 

それで言うと手や指を日常でも意識するようになりました。自分の身体を主体にすると、ものが存在の比率として小さくなりますよね。でも、もの基準の人はかなり大きい。ちょうどいいサイズなのは手や指先。ものと接続してる手は、どういう持ち方、触れ方がいいのか、手の稼働範囲を普段からよく意識するようになりました。日常でもレジでお金をもらったり渡したりするとき、コップを持つ位置、他人の手や指先の行方を追うようになって、気づいたら数時間経ってるみたいなことはあります。

 

ものとの接し方いろいろ:でっかい手になるor手をなくす

 

朴   なるほど~面白いですね。確かにものからすると人間のからだでちょうどいいサイズの部位って手ですよね。バカでかいものもあるけど、このデスクトップ・シアターで扱うのは卓上に置けるサイズのものだし、そしてこの作品でメインのアクターになるのは舞台に応じて手と指ですよね。小中さんは俯瞰してそれぞれの演者のものの扱い方という観点からテーブルを捉えられているようですが、今井さんはどうでしょう? 俯瞰ですか、それともテーブルの上の空間に入り込んでる感じなんでしょうか?人への見られ方を意識してたりしますか?

 

 

今井  え~どうなんやろ......。全体はあんまり見えてないです。意識が向いてるのはテーブル上のものばっかりですね。稽古場ではお客さんがいないので、ひとつのことに集中しちゃってます。人から見られるというか、テーブル上にものがあったら、どう対話していくか、みたいなことを考えています。自分のことばっかりになってて、あんまり俯瞰にはなってないですね。周りから見られることを稽古中は意識してないです。

 

 

小中  今井さんと『1.モノカー』をやってるんですけど、今井さんはすごく没入しているようにみえます。それが私はすごくうらやましい。ものを動かすときのスピードも、福井さんからも言葉があったんですけど、対照的ですごく面白いんです。それと、今井さんが机に寝転がるシーンでは、本当に寝てる?って感じに堂々としてて、からだがのびやか。今井さんは全身が指先みたいな動きでものに接続しているようにみえますね。手、指、肩、が分離してない。観てるとすごくこっちも没入します。

 

今井  ありがとうございます笑。周りから見られると違いますね......。

 

 

朴   今井さん=「ひとつのでっかい手」説ありますね。

 

 

今井  空間に対する見方によって動き方とかすごく変わるってことですよね。テーブルの上に集中するか、もうちょっと広い範囲で見るのかで。

 

 

朴   たぶんその違いが、まさしくこの2人のコンビに現れているのではって感じがしますけどね。

 

小中  私は『モノカー』でものを動かすときに、客席から見たときの指先の角度がずっと気になって、なかなか動かせないんです。自分の方向からだと指4本で見えるけど、客席から見えるのは指3本のほうがいいのか、そうなると小指が邪魔だからどうしたらいいんだろうとか。全く没入できていないですね。ほんとに俯瞰しちゃいます。あと、『モノカー』で車を移動させるときは、指が車のフロントガラスにかからないようにしようと気をつけたりしています。フロントガラスに指があると車に乗ってる人からすると前が見えなくなるので。

 

 

朴   フロントガラスに指かからないようにしてるのめっちゃおもしろいですね、そこリアリズムなんだ笑。

 

座組の割合的には、演者のタイプはどういう感じに分かれるんですかね? 没入タイプと俯瞰タイプが割とバランスよくいる気がしますが......。

 

 

小中  ものとの接し方で言うと、石原さん・斉藤さん・今井さんは没入型なのかな〜。篠原さん、小坂さんは切り替えがあるような気がしたり。例えば、キッチンのシーンだと人間が動いてる感じだけどレストランのシーンは人形のように、という吉野さんの演出に基づいた動きになっているようにみえます。その切り替えスイッチが意識してやってますというより、とてもシームレスで。小坂さんを見てるとからだの部位ごとにバラバラなのかなと思ったりしますね。それぞれに自立した意思が宿ってるからわざわざ頭でかんがえなくていいでしょう?みたいな。

 

朴   小中さんの観察おもしろいです! 篠原さんと小坂さんが、人ともののあいだにいてすっと切り替えられる人たちで、あとの野村さんと宮田さんはどうなんでしょうかね?

image2.jpeg

稽古風景(写真:小中葵)

小中  野村さん・宮田さんは、なんかスムーズ・・・。ものの動かし方とか洗練されてる感じがします。自分が没入するほど意識は手放してないけど迷いがないみたいな。それがすごいです。さも今はじめてやりましたみたいな新鮮さを持ち合わせつつ、でも何回同じことを連続でやっても、お客さんに対する時間の運び方が均等なのかなと感じます。心地よい風が吹く街に必ずあるコロッケ屋みたいな。宮田さんと野村さんに意識はいくけど、テーブル上をちゃんとみれる安定感があります。自分にはできないから、どうやってるんだろうとずっと観察しちゃいます。没入型(仮)の3人、石原さん・斉藤さん・今井さんは、身体(存在)がまるごと見えなくなる瞬間があって不思議です。ちゃんとそこにはいるんだけどみえない。この3人のパフォーマンス中にカメラのファインダーから覗いた顔は、知らない横顔をずっと見てる感じでした。普通にしゃべると、あ、石原さんだ、斉藤さんだ、ってわかるけど。野村さんと宮田さんは顔変わらないかな。たぶんジャムおじさんがいますね、あの2人には。勝手な考察ですけど・・・。

 

 

朴   ジャムおじさんが同じ顔焼いてますね笑。知らない顔って言われて、今井さんどうですか?

 

今井  どんな顔してるんやろ? 自分の写真、後々見てみます笑。舞台をやってるときは、吉野さんがslackに書いていた「2.ものとのゼロ距離」とか、すごく思い出してます。最初は自分がものになることを前提にしてました。そうじゃなくて、吉野さんが言ってたように、ものはもの、人は人として、上でも下でもない対等な位置づけ。じゃあこの場合ものとどう向き合ったらいいんだろうということを考えてやってるから、周りが見えなくなってるのかもしれません。

小中  そうだ、今井さんと『モノカー』やってるときにいつも驚くんですけど、時間の誤差がだいたい20秒前後なんです。1回だけ、1分半の誤差が生じたんですけど、それはアップテンポなダンスをパフォーマンスの前に今井さんが踊ってたときで、このダンスで体内時計が狂ったんだなとおもった瞬間があって、おもしろかったです。テーブル上のものの時間を、自分の身体にインストールしてやってるから時間がずれないのかな。仮説ですが。

 

 

朴   インストールってすごい。わたしとか、たとえばこのコップとかにいつも「ごめん、おれのペースで行かせてもらうわ~」っていう向き合い方ばっかしてますね......。机の上のものに時間を合わせるって特殊な体験だなと思います。普段やらないことだからこそ、やろうとすると今井さんみたいにすんって入り込んでいく感じがあるのかもですね。

 

 

小中  私はものを動かすときに、自分の思考がいつもかなり邪魔で、どうしようと思いつつどうにもできないまま手に流れ込んでしまうので、どうにかせめて観客の視点をいつもインストールして、どう見えるかという方向にいっちゃいます。

 

 

朴   小中さんはお客さんからどう見えるか、今井さんはどうしたらものと一緒にいられるのか、という方向でやってるんですかね。

 

 

今井  ぜんぜん違う笑

 

 

小中  どうみえるか、もの自体がどうみられるのがベストか、それを基準にしたとき、私の手が邪魔にならない範囲はどこか、をつねに考えてます。だからいつも触れられる場所なんてなくなるんですよね、考えすぎると。不自然なんです。手がなくなるしかない。コップを動かすときも、取っ手を持って動かすべきか、取っ手を進行方向に向けるべきか、考えます。上からつかんでふさいじゃうと、飲み口というコップのアイデンティティがなくなっちゃうかなと思って動かせないとかけっこうあります。ちなみに、ぬいぐるみは動かしやすいです。サンマのぬいぐるみがあるんですけど、頭を進行方向にしてしっぽの横を軽くもってすーっと動かします。形状や柄が左右対称だからかな。少し気楽に動かしやすいんです。

1. PUI PUI モルカー』のように、ものを車に見立てて行う上演。

2. 『デスクトップ・シアター』のslack上に本公演演出の吉野俊太郎が書き込んだ以下の内容。

ものはすぐにゼロ距離で扱われてしまう。人であればそんなことはないはずなのに、ものはすぐに触れられて、愛撫される。ものとの関係において直截な他者性が無いというか。ものに距離を置くときには、その対象が本来的にもの自体であることは少ない気がします。例えば別れた相手からもらった手紙を、プレゼントを箱に入れて押し入れの奥底に仕舞い込むとか、そういう時にも、ものは媒体(メディア=ミディウム=中間項)でしかない。

ものと一緒の時間にいる方法

朴   そういうところで言うと、今井さんにとって一緒にいやすいもの、いづらいものってありますか?

 

今井  一緒にいやすいもの......。一緒にいるときに考えなくていいものと、考えてしまうものはありますね。考えなくていいのは、小中さんが言ったみたいにぬいぐるみとか眼のあるもの。わたしと同じようなからだのかたちをしていて、眼があって、鼻があると、自分のからだと共通点があるから、考えずに「ああじゃあ共にいよう」、ってできます。眼とかのないコップとか、車型のおもちゃとか、そういうものに関しては人とものっていうのが切り離されるので、すごく考えますね。

 

朴   切り離されたやつらと、こうやったら一緒にいやすいかも?みたいな発見はあったりしますか?

 

今井  なんやろ......。それこそ、単体同士と思ってやるとやりやすいです。ぬいぐるみみたいな考え方とは違う、反対の方向に考えることで、感覚が違う方向になってやりやすいというのはあるかな。

 

 

朴   眼とか、感覚する場所があるようなものなら、自分に引き寄せられるけど、そうでないものにはどう接するのか気になりますね。その違う方向の感覚ってどんな感じでしょうか?静かなんですかね。

 

 

今井  言い表しづらい......。眼があると、自分もそっちになってみようとするんですけど、眼とかがないと、自分とは違うものとして、突き放すような態度をとる感じです。眼のあるもの、ないものの扱い方の違いはそういうことかもしれないです。

 

 

朴   こういう、今井さんにおける眼のような「自分にものを引き寄せるポイント」は小中さんにはありますか?

 

 

小中  私はそこに自分を含めていないですね。ものが位置しているテーブル、もの、観客の視点の3点で空間が構成されていて、そこに動きを加える自分の手の位置がある、みたいにしか捉えきれてないです。なので公演中、写真撮るところが結構あるんですけど、そのときにやっと自分もここにいる、という安心感があったりします。邪魔になってない位置を見つけたぞみたいな。ある意味ずっと観客なのかも。演者としての自分はものに対して動きを加える役割って認識ですね。ただそこに本来あるであろう秩序に不自然さがない位置取りをしたい。パワーバランス的に、もの:わたし=1000です笑。わたしをどうにかゼロにしたい。

image1.jpeg

稽古風景(写真:小中葵)

没入型(仮)の石原さん・斉藤さん・今井さんは、もの:わたし=100:100で両立してるように見えて、どうやってるんだ!?と思います。どうやってこの人たちはものたちとの時間を過ごしているのか。自身の時間も、ものの時間も絶えず流れているような。みていてすごく居心地がよさそうなんです。ものも、人も。白状すると『モノカー』をやってる時の私は一番居心地悪いです。

 

(おもむろにメモを始める今井)

 

 

小中  今井ちゃんがメモとりだした!

 

今井  小中さんのお話を聞きながら、ものと一緒にいる時間、について、自分がいま持っている「もの」を、シンプルにものとして見ているか、もとは人だけど今はもののかたちをしているとみなしているか、ということを考えてました。で、難しいこと考えたなと思って、いったんその考えを外に出してメモしました笑。もの:わたし=100:0は最初からものを突き放してますよね。ものを操る、という突き放した状態ではじまっている。わたしはものが人だった場合、この距離は大丈夫なんだろうか、と考えたりします。そこの感覚で、ものと過ごす時間が変わるのかなと。

 

朴   今井さんのお話、すごく重要だなと思いました。人だろうがものだろうが、敬意をもって丁寧に一緒にいる、ということ。今井さんの言ってる「人」っていうのは、同じ尊厳を持ってる、尊重すべき存在って感じなんですかね。

 

小中  その話聞いて思ったんですけど私、ものを動かすときに、彼らが自発的に動いてくれる時を待ってる瞬間があるんですよね。できることなら触れたくないんだけど、でもあぁそうか、動かないんだったっていうタイムラグがめっちゃ生じてます。それで、もの:わたし=100:0になっちゃうのかも。

 

ものを自分から突き放すというか、私の場合、彼らの意識や自発的な働きかけをどこかで盲目的に待ってしまっている。でも待ってたらこの場は動かないし、動きを加えるのは自分の役目。でも許されるなら永遠に待ちたい。割り切れない割り算の式みたいに、割り切れないとわかっているけど、いつか割り切れるんじゃないかと思って割り続ける、みたいな。そういう自分の暫定の認識や予測を飛び越えた瞬間をどこかで期待しています。そんなタイムラグが思考の中に結構ありますね。

 

 

朴   来てくれるの待ってるぞ!っていうの、すごいタイムラグだな......。待ってたらなにか起こる、っていうのは自然界ではよくありそうですよね。雨が降るとか、植物が伸びるとか、石が転がるとか。

 

 

小中  そうですね、たしかに。だから写真を撮るみたいな位置は楽なのかも。起きたのかもしれない偶発性に想いを馳せつつ、今のそこに居合わせた私は写真を撮ったという意味では動作や行為が完結しているので自分で納得できる。人から指定された役割や意味から抜け出したものたちの佇む姿を目撃できたんじゃないかな、とか思いながら動かしている。そんな感じです。

 

 

今井  そんな感覚ないです、わたし笑

 

 

(爆笑)

 

 

小中  だからある意味、こちらとしてはまっすぐ動かすはずだったものが、テーブルの溝に引っかかって曲がった、わずかな抵抗を手のひらに感じたときは、ほんのすこし信じられるなって思います。

 

自分がわからなくなる不思議な感覚

 

朴   お話を伺っていて、本当に、演者の方それぞれの感性がビビッドに出る演目なんだなってよくわかりました。今井さんは一体化してるけど、小中さんは俯瞰して見てる、そういうものに対するいろんな向き合い方の展示みたいなものにもなりそうですね。お客さんも、ものに直接アクセスできる人もいるかもしれないんですけど、今井さんとバイブス合うから今井さんと息を合わせようとか、小中さんのみてる感じがいいからこういう感じで自分もみてみようとか、ものを扱ってる演者と、お客さんがものへの接し方を共有する、そういうこともできそうですね。そろそろ終わりの時間なので、まとめっぽい発言をしました笑。最後になにか、他にも言っておきたいことなどありますか?

 

 

今井  この作品について特に共有したいのは、おもしろいけど不思議な感覚になるな、みたいなところです。具体的には主に斉藤さんと一緒にやってるところなんですけど。『舞台と水』というシーンで、わたしが斉藤さんについて回るところがあります。『モノカー』が終わった後にやるんですけど。最初はずっとテーブルの上で指を動かして人をやってたのを、斉藤さんからもらう傘を機にして、からだ全体にシフトします。そこで、斉藤さんがテーブルの上でやっている指の人と、地上で身体全体で動いている自分の目があったり、手招きされたりします。指の人と、自分のからだの居場所。テーブルの上で自分が操ってる指から、地上で全身で動くからだになったときに、今でもわたしは誰かに操られてるんだろうか?どっちが仮の自分で本当の自分なんだろうか?と思ってごちゃごちゃしたりします。斉藤さんとかこういうのどう考えてるんやろ~っていうのは知りたい。

image5.jpeg

稽古風景(写真:小中葵)

朴   実際、からだの次元になった時もやっぱりいろんな演出で動かされてますからね。福井さんの指示とか、ロームシアターの床とか。もはや鑑賞するんじゃなくて、そういう斉藤さんと歩くワークショップやったら面白そうですね笑。今の疑問、ぜひ斉藤さんに聞いてみてください、テスト後に。本日はありがとうございました!

 

ロームシアター京都×京都芸術センター

U35創造支援プログラム“KIPPU”

デスクトップ・シアター

202172日(金)~74日(日)

ロームシアター京都ノースホール

desktoptheater_1.jpg