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テーブルで人とものが共演する『デスクトップ・シアター』。少し謎めいて見えるこの作品、作り手にとっても試行錯誤の連続です。いったいどういう作品なのか、具体的なエピソードやキーワードをドラマトゥルク(座組全体のサポート役)の朴建雄がクリエーションメンバーから聞き、創作の現在地を共有していきます。

初回となる今回は、演出の福井裕孝と吉野俊太郎に話を聞きました。

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vol.1

二人の卓上紹介

二人の卓上紹介

   今回の作品、『デスクトップ・シアター』というタイトルで、テーブルが舞台ということですが、いまの情報だけだと「舞台やります!」ということしかわからず、「では具体的な内容は?」と思ってしまいます(笑)

 

そこで、舞台である「テーブル」、そしてテーブルを使う人の共演者である「もの」の具体例をまず見せていただきたいなと思いました。いまzoomのデバイスを載せている、お二人のテーブルを見せていただいてもよいですか?

福井  テーブルは、IKEAのテーブル脚に9ミリの薄いOSB合板を載っけてるだけですね。これもう売ってないんですけど、こないだヤフオクで見つけて、定価の倍ぐらいで買いました。これは(今回の公演の宣伝美術の)浅田さんがデザインされてるフリーペーパー。さっき買った本。

 

427日で止まっていた、卓上の日めくりカレンダーをめくりだす福井)

 

今日(58日)は向井理。

 

吉野  椅子かわいい〜

福井  全然家具ないからものは大体机かベッドの上に集まってくる感じです。

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テーブルの上(福井)

吉野  僕の机はこういう感じでマイクがあったり、webカメラ代わりに使用しているスマホを固定したりしてます。

 

福井  いつもマイクあったんや。

吉野  個展の準備で服を作ってるので、裁縫道具が特別にあったり。机の横にある台の上に置いたプリンターはもはや机の延長としても使っていて、上に演劇のチラシとかが載っちゃってます。

それと実はさっきまで机の上にミシンを置いて制作していたんですが、今はそれが椅子のすぐ横の床にあります。床にけっこうもの置いてますね。床が二軍のものの居場所で、机が一軍という感じです。

あと…zoomやるときいつも置いてるお茶ですね。ポットとマグカップ。注いだら音が聞こえるので、いつも音消してこっそり注いでます(笑)最近、マグカップを載せるコースターを使うようになりました。そういえばコースターもある種の台座ですね。

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テーブルの上(吉野)

   zoomだと、相手の机まで見られることが少ないのでおもしろいですね。二人が日常生活でどうやってものとつきあってるのか知りたかったので、見せてもらいました。ところで、なにか机に関するマイルールなどあったりしますか?

 

吉野  床にものを置かないのは福井さんらしいですね〜。僕は机と床をある程度同等に扱ってものを置いてます。福井さんは床がすごいきれい。フライヤーに書いたテキストの通り、福井さんと僕とでデスクトップとデスクボトムの扱いが違うのを実感します。ちなみに僕は机に引き出しほしい派…引き出しあけるのもめんどくさいから、ペンは一本机の上に置いたりしてます。

 

福井  机のルールとかは特にないです。ものは置きやすいところに置くから自然と散らかってくる。パソコンはこの辺とか自然と位置が決まってくるものはあるけど、いちいち場所は決めないですね。

 

吉野  引き出しとかほしくならないですか?

 

福井  ならないっすね。あってもあんま使わないと思います。

 

吉野  自分は卓上のものの場所は決めてるな。基本の居場所があります。福井さんは小物とか集めてるけど、僕は小物を机に持ってこないんですよね。フィギュアみたいな小物も、例えば本棚に、近くにある本と関連付けて居場所を作ったりしています。飾るだけで、もの自体にはあんまり触らない。福井さんは小物の扱いアクロバティックですよね。ポケットにいろいろ入れたりとかしてそう。

 

福井  一つ一つ意識して置いたりはしないです。

 

吉野  僕は邪魔に感じちゃうかも。

 

福井  でも意識すると邪魔には感じますね。誰が置いてんこれって。

 

吉野  単純に福井さんの机大きいですよね。奥行きもある気が…。自分の机は手を伸ばせば奥まで届くぐらい。

 

福井  これも届きますよ、700mmとかなんで。これ(天板)薄すぎて使ううちに反ってくるから、たまにひっくり返さないといけなくて。水にも弱いしそもそもテーブルに適してないんですけど。

 

   デスクトップシアターの出発点となる、お二人の机に対する感覚が確認できたように思います。ありがとうございます。

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『デスクトップ・シアター』ワークインプログレス
2019 / スパイラル・ガーデン

二人でやる理由

   ここから公演の中身に踏み込んでいこうと思います。まず、福井さんに伺いたいのですが、なぜ吉野さんと一緒にやりたいと思われたんですか?

 

福井  作品を作る人演出する人が自分以外に何人かいた方がいいなとは最初から考えていました。誰か演劇の人に頼もうとも思ったんですけど、二年前自分でワークインでやった経験から、演劇からテーブルだけじゃなくて、テーブルの側から演劇を考えるみたいな人と一緒にやれた方がいいだろうなと思って。で、考えてた時に「ユリイカ」のぬいぐるみ特集で吉野さんが寄稿されてるのを読んで。クマ財団は年度が違うから面識は全くなかったんですけど、あらためてツイッターとかウェブサイトを見たら「操演」「人形劇」「台座」っていうフレーズがあって、それが今回の内容と重なるなって、それで初めて連絡しました。経緯何か間違ってます?

 

吉野  いやいや大丈夫だと思います。当時「ユリイカからなんだ、そこからなんだ(笑)」と思いました。

 

   文章って書くもんだなと思いますね。

 

吉野  一応博士課程とはいえど制作と展示ばかりで、普段から文章書く仕事を中心にできているわけではないんですけどね。ユリイカはとある方からから「ぬいぐるみ特集あるけど書きますか?」とお誘いをいただいて。

二人でやる理由
ものタイプ

ものタイプの演劇と在廊という上演

朴   なるほど。この流れで吉野さんに聞きたいのですが、演出の誘いを受けた理由はなんでしょうか? それと合わせて、普段ギャラリー等で展示をされている吉野さんにとって、劇場でやることがどんな感覚をもたらしているかも伺えたら。

 

吉野  誘われたとき、嬉しかったんです。声をかけられる1年くらい前から、福井さんという方がいらっしゃるんだとチェックはしていました。去年、『インテリア』の公演映像を公開されてて、あわせて『部屋と演劇』のトークイベントをされてましたよね。福井さんはどういったことに関心がある方なんだろうと思っていました。福井さんのことが気になって色々調べていたので、お誘いいただけてよかったです。

 

福井さんのどういうところに興味があるかというと…。こんな言い方すると誰かから怒られるかもしれないですけど、演劇はひとにフォーカスする傾向が強い印象を持っていて。知り合いの写真家とかを思い浮かべながら例を挙げると、写真をやる人には2種類いる感覚があります。ひとを撮れる人と、ものを撮れる人。ひとを撮れる人はものもひとっぽく撮るのに対して、ものを撮る人はひともものと同じくらいの遠い距離感で撮るような?演劇も、ひとタイプとものタイプの方がいるのかなと思ったりするんですよね。そして、ひとタイプには十分な人口がいる気がする。現代口語演劇とか言われるような形でも、オフィスマウンテンみたいな身体に注目する形でも。人の身体、感情、思考、その有機性を扱っているような方たちです。彼らは人間中心的とも言えるんですが、そこでは福井さんは特異な人に思えます。

 

誘われたときは、自分(福井さん)のことを気になってる人を、よく初対面で見つけられたなと思ってびっくりしました。マッチングで急に両想いになった感じ(笑)

 

劇場でやることについてですが、普段美術をやっている身としては、ぜんぜん違う意識はあります。役割の違いなのかな。展示場所やギャラリーや台座に関わるときと、演劇やデスクトップにかかわるとき、役割が全く異なってくるのを感じました。意識するところは変わりませんが。

 

たとえば先日、「嘔吐学vol.2greenery efficacy』」という展示を企画開催していたのですが…。そこでは自分の作品は展示せず、別で展示者が2人いて、会期のあいだ展示者は在廊していない状況。自分は企画者なので責務もあり、その期間中をずっと在廊していました。それで最中に、心底在廊って演劇だなと感じたんです。お客さんが来て、お客さんの案内をして、お客さんの動きを見て、自分の動きを決める。粗相があっちゃいけない。展示や展示作品に悪影響がないよう、案内の言葉や振る舞いをずっと意識していました。こんなとこでぼく精神すり減らさないといけないんだ、と思ってめっちゃ疲れて…(笑)他人である展示者の作品説明をするときも、どういう身振りや態度ですればいいのか、当事者じゃないのでいまいちすっきりしない。こういうのって、自分が展示をするときは僕はそこまで意識していませんでした。ある意味、作品を置いたらそれで終わりです。ちなみに僕は、展示者が作品と同じ空間で「作ったのはわたしです」と振る舞うのはあまり好きじゃない。

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朴   展示空間を成立させるための演者として、その空間にいた感じなんですかね。

 

吉野  そうですね。この在廊で感じたストレスを、自分は展示作品にかけてたなと思いました。展示作品の身なりを気にして、台座にこう座っててね、と演出と指導をしていたような。企画者としてギャラリーに在廊してみて、展示物の気持ちになったような気がしたんです。

 

『デスクトップ・シアター』に関わることが決まって、そのあとに『嘔吐学』の在廊をやってみて、自分が展示者の役割のときには、展示物の気持ちにはそこまで意識が向けられてなかったことを痛感しましたね。

 

福井  KUMA EXHIBITION 2019で『デスクトップ・シアター』のワーク・イン・プログレスを発表したとき、初めて在廊(?)しましたね。上演やってないときはテーブルの「展示」ってことにしてたから一応近くに立ってたけど、なんか変な時間でした。

 

 

吉野  在廊は自分自身が鑑賞対象にもなりえますもんね。

演出に伴う、人とものの権力関係

朴   そこで、どう観られるのかを操作する「演出」が問題になると思います。吉野さんのキーワードとして「台座」と「操演」がありますが、どちらも「演出」に関わることです。例えば、「演出」をフランス語ではミザンセーヌと言います。これは直訳すると「舞台の上に置く」という意味です。「台座」はまさしくこの「どう置くか」という意味で、ものを演出することに関わっています。また、「操演」は少し聞き慣れない言葉ですが、これも、ものを操作して動かすことで見せ方を演出することです。

 

ここで問題になるのが、「演出」に伴う操作という行為が必然的に持つ一方的な権力です。演劇をやっている人は、たいてい人がものを一方的に操作するように権力を行使しますが、福井さんは人とものの関係を一方的な操作でなくやろうとしているような印象があります。「嘔吐学vol.2 greenery efficacy』」では吉野さんは緑の光という演出めいたことを展示の中心要素に置かれていた。

お二人の共通する問題意識として、「人とものの権力関係」があるのではと思っているのですが、いかがでしょうか?

吉野  福井さんはひとじゃなくものにフォーカスを置いて、ものよりひとを優先するような思考が他の演劇作家よりも強くない。そこは素直に尊敬していますが、でも僕は福井さんと同じことをやりたいわけではないんです。ひとがものより優位になりがちだという前提の上で、ものをコントロールしているひとの権威構造について問題意識を持って活動しています——それは〈彫刻〉を専門としているので。

 

〈彫刻〉をやってる人は生命感を重視しがちなんですが、ひとのかたちをした彫刻物に生命を見出すのはある種邪悪だと思っています。作ってる人がそう発言するのっていいのかな?と…無意識に自分自身を神と等価に置いている気がするんですよね。例えば、聖書でアダムは土から作られたと書かれています。アダム(Adamah)という名の意味も土(塵)らしい。人間は神が作った土の彫刻なんです。一部の制作者は、自分が作ったものに固執するあまり、私という創造主がこのものを作り、コントロールしてそこに存在させてますよ、みたいなことを無自覚にやっている傾向がある。それがすごく嫌だなと思っていました。

 

ほかに「素材の声を聞く」「素材と対話する」とか、そういう表現を美術関係者らの口から聞いたりもします。本人はものと対等にやり取りしてるみたいに言うが、実際対等な関係は築けているのか?と思うんですよね。人の権力の強さに違和感があるんです。コントロールされるものの象徴としての台座を扱って、ものをコントロールしている傲慢な人々についての批評をしていきたい。

 

朴   台座という立脚点から、人とものの権力の不均衡を考えているんですね。

吉野  もともと僕は木を彫っていました。そうやって美術作品を作るのは、ある意味演出する行為と同等です。美術家は何もないところから何かを生み出しているわけではない、「新しいかたちを生み出しました」と見せかけているだけです。自己を演出して、ひとつのイリュージョンを魅せる。この丸太から人を彫りおこしましたと、人に見せる段階で一番強く働いている力は演出です。もっと言えば、展示もまた演出です。つまり展示という営為で真に注目すべきなのは、展示されているものではなくて、それをどう見せているかという演出の方。台座や壁や照明やタイトルに気をつけなければならないんだと思います。

朴   マルセル・デュシャンの「泉」を思い出します。

吉野  代表例ですよね。「泉」で重要なのも、便器自体ではなく、その台座にあると思ってます。極論を言えば、便器じゃなくてペンとかでもよかったんじゃね、みたいな。

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福井  その辺の前提は吉野さんと大体同じだと思います。人と人以外のものが等価に〜とかそんなわけないやんってなるし。自分もそういうこと言ってたからなんですけど。今関心があるのはあくまで人とその空間/場所との関係で、ものはそのあいだにあるっていうイメージです。ものってただの「もの」以上でも「もの」以下でもないから、人がそれ以上の何かいやらしい期待をもって関わろうとするのは、あんまりいい気持ちしないですね。

 

吉野  福井さんの作品について、なんとなくいいなと思うのは、ひとの扱いが雑なところですね(笑)ものの扱いは異常に丁寧なのに。どうでもいいものとして、俳優や観客が粗雑な扱いを受けているな、と過去の活動を拝見していて思います。

 

真摯ですよね。なにかを見せるということについてすごい真摯。真摯じゃないのはひとを意識しすぎることです。ひとを意識しすぎると接客業になるので。そうなると接客が重要になってしまう。

なにかを見せることに接客が入ってくることもある。でも本質的なところでは、見せる/見るってサービスでも何でもない。きつい言い方をすれば、見るだけ/見せるだけで殺されるということもあり得ると思ってます。視線の間には、刃物のようなやりとりがある。福井さんは刃物丸出しです。他の人は接客業なので、刃物は使わない用にしている、ケースに厳重に仕舞っています。見られること、見ることへの準備がある。福井さんはその意識がものに全部向いてるのがいいんです。

 

福井  俳優のこともお客さんのことも一方的に信頼してるというか、多分自分が無責任なだけなんですけど。できるだけ人はそのまま「放置」したいというか。演劇にしても展示にしても、ものを放置することはできないと思ってて。あるものがここにあるっていうことの背景には、それを誰かがここに持ってきて置いたっていう事実が常に控えてるから。だからその分ものに対しては演出が丁寧というかいくらか自覚的にならざるを得ない。逆に人は、もちろん人も放置することはできないですけど、作品とは独立した意思を持って行動を選択できるわけで。めっちゃ当たり前のことですけど、それはものとは決定的に違う。だから演出はそういう意味で対照的になるし、俳優に対する演出の手つきが適当に見えるのかもしれないです。

 

吉野  誤解を恐れず言うと、僕はたぶん、俳優さんをひととして扱わない気がします。言葉通りに受け取られてしまうとハラスメントですけど。福井さんは俳優さんを放っておくことで、ひとをもの化していくんでしょうか。

 

福井  昔公演のアンケートで「演出家が出演者をもの扱いしているように見えた」っていうのがあったんですけど、自分の感覚的にはより「ひと化」していくことを目指してやってたので、このギャップはどう考えたらええんかなって今でも思います。

 

吉野  福井さんがもらったそのコメント、僕はもらったらうれしいかも(笑)もちろん、「演劇」の枠組み内で、という条件付きでですが。

ハラスメントってものにも起こりうると思うんですよね。日常的にものにハラスメントしまくってるのに、なんでひとばかり問題視されるのか?そこを思考実験として入れ替えるのはアリです。ものがひとだったら、という視点。そこで「ひとのかたちや感情を持つもの」ではなく「ものをひとと同じような存在」として扱うとどうなるのか。

 

(吉野、近くにあったボールペンを手にとる)

たとえばこのボールペンが「私はボールペンです」と人間のように喋り出すのではなく、たとえばボールペンをノックした時の「カチッ」という音をボールペン独自の言語として考える。ボールペンとしてどう考えているのか?今こうやって扱われていることに、ペンはどう感じているのか?普段こういうことを〈彫刻〉の方で考えていました。

 

福井  昔観たある芝居のなかで刑事ドラマみたいなシーンがあって。刑事が「犯人から連絡があったので逆探知します」つって、カバンから11インチのちいちゃいMacBook Airを取り出すんですね。多分俳優か誰かの私物なんやろうけど、ただPC(電子機器)っていうだけで舞台上に持ち出されて、劇中の「逆探知をするための装置」を演じさせられる。私物が劇の「小道具」として劇中に動員させられることもそうですけど、あのMacBook Airをただの漠然とした「装置」として観客が了解して見てる構造って、考えてみたら結構グロいんちゃうかなって。

吉野  セクハラみたいなものですよね。「全てのMacBookが同じMacBookだと思いこむな!」(笑)大量生産品は、「わたしが死んでも、代わりはいるもの」って感じだけど、例えば見た目が同じでも、ちびっこが抱えているぬいぐるみは、そのぬいぐるみじゃないとダメ。大量生産品だったとしても、替えはきかない。だからぬいぐるみや人形にも興味が尽きないんですよね〜。

 

福井  世界中にある工場で生産された無数のコーラの内、今手に取った「これ」みたいな。大量生産されてるものの方が、その背景に無数のそれが控えてるっていう奥行きを感じて親近感は感じますね。

吉野  福井さんはご実家がお寺で、ご自身も僧侶だと伺ってますけど、それってもしかして仏教における「縁起」では…というのは置いといて、そういう部分では「見立て」はある意味誠実なあり方かもですね。

 

 

福井  桂文珍が「なんでもあるというのは実はなんにもなくて、反対になんにもないというのはなんでもあるんです」みたいな話をしてて。それは落語の話ですけど、すごいわかるなと思いました。ただ演劇の場合、なんでもある空間もなんにもない空間も同じぐらい興味ないです。実際は「ある」か「ない」かじゃなくて、「ある」し、「ない」なので。常になんかはあって、なんかはない。あるとないは同居してる。

 

吉野  『なにもない空間』とかもありますけど、まず床あるじゃん!と思ったり。なんでこの人はここにいられるのか、と考えたら、なんにもないわけがない。床やらなんやらあるからそこにいられるわけで。

福井  去年『インテリア』をやって思ったんですけど、劇場はやっぱり人が立つための場所やから、人のスケールを疑うなら、まずもののための「床」を用意した方がいいと思う。それこそ「台座」ですよね。

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福井裕孝『インテリア』
2020 THEATRE E9 KYOTO

吉野  今回の作品、最初に床に目を向けてるのがよかったです。例えば、『MacBook・シアター』とかだと若干興ざめてたかも(笑)ひとをじゃなくて、今回テーブルとして使用するステージデッキなど、劇場にあるものを公演の主体に置いてるのが、何よりも福井さんのアイデアにラブでした!

 

福井  最初は古舘さんとテーブルを一から作って持ち込もうってプランやったんですけど。それはテーブル自体にコンセプトを集約させて考えてたけど、(ノースホールの)空間のスケール的に厳しくて。去年、劇場の備品である箱馬を劇場の外に送る『シアター・マテリアル』っていうのをやってて、それと期せずして合流するような形になったんでよかったです。ノースホールの床を天板にするっていう案もありました。

 

吉野  福井さん、劇場の人に問い合わせて、床は剥がしちゃダメって言われたんですよね(笑)

 

福井  ステージデッキは舞台の足場として使われてるものやし、移動・交換可能な「もの」としての床と考えたら、むしろこれをテーブルの高さに持ち上げて舞台にしたほうがコンセプトにも合ってるなって。

 

 

朴   ものは動けないので指定する、人は考えられて動けるので放置するという福井さんのやり方はおもしろいですね。

 

吉野  自分は放置は苦手だ…指定しまくってしまいそう。

福井  昔は演出の仕方とか全然わからへんから、台本のセリフの末尾に(15秒)とか、ここでUターンしますとか、舞台上で起こることを全部台本に書き込んでました。それはその通り機械的に再現して欲しいわけでは全くなくて、あくまで例示というか、ただ舞台上で時間を過ごしてもらうための手がかりとして書いてたつもりで。だからそこに「居れる」なら、台本の指示は基本どうでもよくて。あとさっきの話でいうと、俳優がもの扱いされてるっていう見え方は理解はできるし、当然そこに敬意が払われてなければ問題なんですけど、一方で演出っていう行為自体そもそも暴力的なものだと思うので、それは人だからものだからって話じゃなく考えないといけないことだと思います

吉野  たしかエドワード・ゴードン・クレイグの『俳優と超人形』に、俳優には感情やブレがあって完璧じゃないから人形を目指せというようなことが書いてありました。今は時代的に、それ言ったらマズイ。個性とか個人とかをぶったぎって、演出に全てを振り切った考え方です。みんなが同じ方向向いて、演出家の言う通り俳優がやるのって怖いし、サイコな演劇の仕方じゃないですか? でも、彫刻はそれが普通になっている。ものはなんにも文句言わないから。誰にも、なんにも言わない。

 

 

朴   演出に全てを振り切りがちなのは、彫刻だけじゃないですね。日本のある種の演劇は、そういうサイコさ、つまり演出家の演技・演出論を俳優が強く共有して提示することが作品の「強度」で、それを評価すべきだと考えがちです。わたしの同世代には、そういう考え方から距離をとる人たちもいます。わたしも最近そうです。

 

吉野  権力関係に意識置くのは、なんとなく世代的に若い方のほうが多そうですよね。美術界隈ではそう感じます。その手の話題はすぐ共有できるし、みんな同じようなことを感じてるように思える。その意味ではデスクトップシアターでデスクや床を扱うのは、権力の固定化を問い直す時代性を反映してるんじゃないかって思います。

朴   『デスクトップ・シアター』は、なにかを作るときに必然的に生じる権力関係の扱い方を、人ともの、人と人との間というような様々なパースペクティブで考えていく作品になりそうですね。

演出に伴う

演劇・演出という嘘にどう向き合うか

朴   ところで、制作をご担当の黒木さんがお二人に聞きたいと言っていたことをシェアしてもよいですか? 福井さんと吉野さんは、創作における嘘が嫌いそうにみえますが、いかがですか、という質問です。

福井  昔は演劇の何が面白いのかよくわからなくて。客席で見てても「嘘」しかないやんって。でもいつからか演劇ってそもそも「やる」もんやし「嘘」やんなって。要するに演劇のそういう「嘘」っぽい様式そのものは「嘘」ではないって考えるようになったというか。だから、ただの「嘘」は「いや、嘘やん」ってなるから嫌いですね。

吉野  僕も好きじゃないですね〜。同じく「嘘やん」と思ってしまう。

嘘と美術や彫刻の関係について言えば、僕は学部の卒業制作のときに「彫刻は嘘と暴力でできている」というような発想を元に作品を作りました。たとえば街中のブロンズ像。彫刻を作ってる側からすると、あれって中身はなんにもない。銅は高価だから、ああいう銅像は厚み2~3ミリの張りぼてなんです。「愛」とか「健康」とかいうタイトルついてたりして、そういう銅像なんだな~と思うけど、実は張りぼてになった銅の表皮を見ているだけ。彫刻に多少の見識がない人は、中に銅が詰まっているんだなと思うはず。これは軽度ながら立派な嘘ですよね。外見で銅の塊のように見せておいて、実はからっぽなんだという虚無感。こういう嘘って嫌だなと当時思いました。でも、嘘をつかないと彫刻は作れないなとも思って。しかもそこに、素材となるものに対する一方的な暴力が追加される。

 

嘘がないとなんにもできないんだとは思います。でも嘘が好きじゃないので、嘘を露呈させる側に回りたい。嘘を扱おう、そう見せていることをテーマにしようと考えていました。なので、黒木さんが吉野は嘘を嫌いそうと推測されたのは大正解ですね。嘘はコンセプトに深く関わっている言葉です。

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吉野俊太郎『門』(2017

福井  単なる開き直りとかではなく様式」としての嘘を引き受ける態度は、すごく正直で強いなって思います。私服っぽい服着て「私も皆さん(観客)と同じですけれども」みたいな顔して出てくる人より全然信用できる。

 

吉野  困らせた方が素が出ますよね。焦ったり戸惑ったりしたときの素のほうが大事かも。酷い表現ですが、ひととものをそれぞれ平等に困らせて素を見ていきたいです(笑)

演劇・演出

テーブルを変身させる

   人やものを演出する、ありのままのそれらになにか嘘のレイヤーを重ねてみることに関する、お二人の考え方がわかった気がします。最後に、これまでの稽古で考えたことがあれば伺いたいです。テーブル、俳優、ものと実際に一緒にやってみて気づいたことはありますか? 予想と違ったりしたでしょうか。もし違ったのであれば、意外だったり面白かったりしたことを聞かせていただきたいです。

 

吉野  結局ひとを扱わないといけないっていうのが大変ですね。それに伴ってテーブルの、「テーブル」という性質も強く前に出てきてしまう。テーブルがテーブルでしか存在できていないという問題を、今は感じています。本当は素直に「もの」とか「テーブル」とかの文脈から離れたテーブル存在を見られるかと思っていたのだけど、そこは操作しないとできないなという難しさを感じました。

 

福井  そうそう。テーブルの上(デスクトップ)に抽象的な空間を設定しようとしても、ここが「テーブル」ってことを無視したらダメな気がしてて。だから今のところ舞台を「テーブル」としてしか使えてないんですよね。それとテーブルの観客と俳優を向き合わせる、身体同士の関係を物理的に規定する力が思ってた以上に強くて。今まで自分がやってきた公演では、客席の配置で観客の視点が複数になるように設定してきたから、今回みたいな構図やとお客さんの顔見て喋らなあかんのかなって気になって。

 

吉野  福井さんの意識にあるのは天板ですよね。デスクトップだからそうだけど。実は僕「テーブルの脚愛好家」みたいなメモを最近書いていました。個人的には、それくらいやらなきゃだなと思ってます。愛好するくらいの執念がないと、テーブルから脱することができない。テーブルと言えば天板が意識に上るけど、最低限の構成要素として、天板だけでなく床から立ち上がる機構も重要。テーブルの概念を解体しつつ作っていきたい。テーブルがテーブルから離れたら成功です。テーブルを変身させなきゃいけない。

 

福井  今回のテーブルは劇場の備品を使って劇場のサイズに合わせて設計してるからデカいし、初見の人はそもそもこれテーブルなん?ってなるかもしれないですね。ワークインのときは古舘さんに一から設計してもらったから一応テーブルになってたけど。今の吉野さんの話で言えば、劇場の備品をテーブルに置き換えた上で、さらにそこからテーブルの像を剥がすような操作が必要なのかもしれないです。

 

吉野  今回ご出演いただく鶴田さんとそんな話をずっとしてました。先日、『DOLLMAGE』というグループ展で台座の化身みたいな人形作品を展示したりしたんですが、そうやってある程度キャラクター化したほうがわかりやすいかもとも思います。テーブルがテーブルのままだと不可能なことはある。テーブルを憑依させることで、俳優にテーブルを表現してもらうとか。。こういう概念的なテーブルの扱い方も、『デスクトップ・シアター』では考えないといけない。

 

 

福井  もともと劇場の備品っていうのもあるし、もっと見えないもの、そこにないものとして扱うようなことを考えたいですね。テーブルに真正面から愚直に向き合おうとしたら、もうコーヒー飲んでパソコンカタカタするしかないから。

 

吉野  4月にやった稽古内で実験的に「スターバックスのテーブルを上演する」というのがありましたけど、テーブルを使ってスタバの空間を立ち上げるのはすぐできたし、その後の「桃太郎を演ってみる」も比較的問題なくできちゃいましたよね。でも今はテーブルの天板の上か下かしか扱えてないので、その境界を扱わないと、コーヒー飲む場所にしかならない。

 

福井  そういうバリエーションのためにテーブル7台も用意したんで、幅できるといいですね。

 

吉野  各テーブルの役割を分けてみるとか。ところで、テーブルにおける境界的な部分って脚、柱ですよね。地上から空へ、空から地上へをつなげるための塔の一種。

 

   今後の課題はテーブルにおける塔ですね。

 

吉野  テーブルの化身を間違いなく生み出すと思います。テーブル役必要なんだろうなとずーっと思っているので。

 

   化身だけで、ものとして作品になるなっていう感じありますね。

 

吉野  実は518日から東京都台東区のGallery 美の舎という場所で個展をするのですが、そこで展示する作品では一度「化身」は試そうと思っています。

 

   ぜひ伺ってみたいと思います。「演出」という観点から、人とものの権力関係をテーブルという舞台で考えていくこれからの創作が楽しみです。お二人とも、今日はありがとうございました。

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吉野俊太郎 個展「Plinthess | プリンセス」
2021529日まで / Gallery 美の舎
 

変身

ロームシアター京都×京都芸術センター

U35創造支援プログラム“KIPPU”

デスクトップ・シアター

202172日(金)~74日(日)

ロームシアター京都ノースホール

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